日本のルーツ
2003年に、奈良県桜井市の吉備池廃寺(7世紀中頃建造)で、南北幅約15mの寺の正門「南門」の遺構が見つかり、飛鳥時代の寺院としては最大級だったことが、桜井市教育委員会の調査でわかりました。この吉備池廃寺は、日本初の国立寺院「百済大寺」で、寺域が東西約230m、南北290m以上の可能性が高く、南門や大垣も完成した大規模な伽藍を持った国立寺院だったことが確定的となりました。日本の文化は、ほとんど、「百済」の文化と同一であったと言えるでしょう。
このことからも、当時、「百済」から日本へ移住した人たちの影響がかなり強かったことがうかがえます。やはり、これも「百済」が「日本」を建国したからではないでしょうか?すなわち、355〜360年頃、海洋国家「百済」は、済州島、対馬、壱岐、九州、中国地方、四国地方、紀伊半島と征服して行き、360年頃、現在の日本の奈良県に、天皇制度の大和朝廷を開き、中央集権国家である「日本」を建国し、百済王朝の親族支配が始まったからです。日本と百済は一心同体の関係でした。「古事記」の神武天皇は、百済の始祖である「温祚(おんじょ)王」であり、10世代目の大和朝廷を開いた崇神天皇は、ヤマトタケルの尊(みこと)で、百済王12代目の「契王」の孫と思われます。そして、この崇神天皇が、355年頃、その当時、「日本」の前の国であった「倭国」の中心であった北九州の「伊都国」を侵略、制圧し、「伊都国」の女王か、女王の娘と結婚し、「倭国」との血縁関係を結び、それから、近畿地方
や関東地方へと進出して行ったのでした。なお、346年に海洋王国「百済」を建国したのは、百済王13代目の「近肖古王」であり、百済王朝は、「旧約聖書」の中に登場するノアの息子セムの5番目の息子アラムの息子ホルの子孫で、倍達国(ペダル国、神市、檀国、粛慎)の王族であったヘモスの息子朱蒙
(ちゅもん)の子孫です。
アダムの子孫であるノアの息子セムの5番目の息子アラムの息子である「ホル」は、「地平線の太陽、栄光、光、神聖、神、鷹の意味」を持った名前で、「太陽信仰」の象徴でした。ホル人たちの一部は、紀元前2850年頃、現在のシリアのユーフラテス川南岸にあったアラム地方から移動して、メソポタミア地方、パミール高原、天山山脈沿いのタリム川、ツルファン盆地、モンゴル高原を経て、紀元前2500年〜紀元前2300年頃、バイカル湖周辺に、現在のブリヤート共和国を中心とするホル王国(光明の国、桓国、匈奴)を建国し、その後、桓国の中核らが、アムール川(黒竜江)と小シンアンリン山脈の間を南下して、大シンアンリン山脈沿いの東北平原に、紀元前1900年頃、倍達国(ペダル国、神市、檀国、粛慎)を建国し、その後、粛慎の中核らが、紀元前1100年頃、穢貊(わいはく)を建国し、その後、穢貊の中核らが、紀元前238年頃に扶余を建国しました。
中国の始祖である黄帝もホルの子孫でモンゴル高原から現在の中国の張家口近辺から内陸部へ移住し、黄帝の子孫でセンギョクの子孫でもある舜(シュン)が堯(ギョウ)の時代に追放した四凶の一人であり、センギョクの子孫でもあるトウコツが紀元前2333年頃、遼東半島に壇君朝鮮を建国したと見られることから、中国東北部には現在の北京方面からとアムール川の北部から移住した人たちが長期にわたって混血し、同化して行ったと思われます。
また、紀元前1023年頃には、殷(商)王朝28代文丁の子である箕子(きし)が、殷の滅亡後、殷の遺民を率いて東方へ赴き、王倹城(現在の平壌)を首都として、箕子朝鮮(韓氏朝鮮、奇氏朝鮮)を建国しました。しかし、紀元前195年に燕王盧綰の部将であった衛満が朝鮮に亡命して来
て、翌年紀元前194年に逃亡民勢力を率いて反乱を起し、王倹城(現在の平壌)を攻落し、王権を奪取して衛氏朝鮮を起しました。その後、箕子朝鮮(韓氏朝鮮、奇氏朝鮮)から逃れた人々は、三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の前身となる韓を建国しました。
そして、紀元前108年に、前漢が衛氏朝鮮を滅ぼしました。しかし、紀元前37年には、扶余で育った朱蒙(ちゅもん)(紀元前58年〜紀元前18年)が卒本扶余に高句麗を建国しました。朱蒙の父親はノアの曾孫ホルの子孫で檀君朝鮮の王族の子孫であるヘモスで、母親はユファでした。その時に、高句麗建国の功臣 陜父(ひょっぽ)たちが日本の出雲地方に逃げ、多婆羅国(出雲王国)を建国しました。その後、紀元前18年に、朱蒙と佳婁のソソノとの間に生まれた温祚
(おんじょ)が漢城(現在のソウル近辺の漢江南岸)に百済を建国しました。
ところで、「日本人のルーツ」については、2003年、NHK放送局でも特別番組を制作して放映していましたが、古代史の本やインターネットの「徐福伝説」と「古代朝鮮」関連のホームページや江上波夫氏の騎馬民族征服説などの情報をそれに追加して、次のような推論が成り立つと考えます。すなわち、紀元前300年頃以前にも、中国から舟で移住して来た中国人と思われる縄文人が青森県青森市に存在する三内丸山遺跡のように高度な縄文文化を築いていました。そして、紀元前219年頃の秦の始皇帝の時代には、中国の江南地方の斎にいたかつての徐王国の末裔であり、宗教や医学、薬学などを扱う科学技術者で、方士であった徐福が、童男童女と農百工(各種の職人)を含む若い男女3千人と五穀の種子を伴って、万里の長城の起点である、秦皇島(しのと)から、
85隻ほどの舟に乗って、不老不死の仙薬を求めて、日本をめざし、朝鮮半島沿いに済州島に立ち寄り、日本の北九州の現在の佐賀県の佐賀平野の吉ノ里に辿り着き、徐福は王となり、稲作や養蚕を含む農業、漁業、青銅、鉄、ガラスなどの技術、医学、薬学などの文化を持った徐王国を築きました。徐王国は、その後衰退して行ったようです。紀元前37年頃の弥生時代には、高句麗建国の功臣 陜父(ひょっぽ)たちが日本の島根県松江市近辺の出雲地方に逃げ、多婆羅国(出雲王国)を建国し、鉄器や陶器、及び銅器などの文物(銅剣と銅鉾と銅鐸)を使用していました。その後も、中国
や朝鮮半島の戦火を逃れて日本へ移住した中国人や朝鮮人が多数いたのでしょう。その中に、現在の九州宮崎県西都市の西都原古墳群近辺へ移住した朝鮮人たちが邪馬台国を築き、西暦239年には、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)が、帯方郡および魏に遣使を派遣し、西暦243年には、魏帝に貢物を贈り、西暦245年には魏の斎王芳が、倭国使に物を与えています。その後、西暦266年には、卑弥呼の後継者である倭の女王壹與(いよ)が晋に遣使を派遣しています。その後、邪馬台国は衰退したようです。卑弥呼の邪馬台国畿内説論者が、前方後円墳の築造時期を無理やり邪馬台国と結びつけようとしていますが、「魏志倭人伝」の記述通りに地図を辿っていけば、現在の
博多湾と有明海が海の水でつながっていたことがわかり、女王制度だった邪馬台国は、現在の宮崎県西都市近辺を中心として、九州全域に影響を与えた政治を行っていた地方豪族であったことがわかります。そして、魏の王様が卑弥呼に贈った100枚の鏡は、倭国の伊都国などの他の国々にも配られたことがわかります。西暦266年以降、中国の歴史書に「邪馬台国」の名前が出現しなかったのは、「邪馬台国」が政治的権力を失い、その支配力は無きに等しかったからか、または、滅亡していたからだと思えます。
それゆえに、日本人の多くは、古代エジプトへ売られたヨセフの子孫である中国人と朝鮮半島の人々、ノアの曾孫ホルの子孫である朝鮮半島の人々、南方ポリネシア地方出身の人々と北方ロシア出身の人々との混血で、日本人の一部には、中世時代に日本へ訪問していたヨーロッパ人の血も混じっているに違いありません。私が、今、ここに存在するのも、多くのご先祖様たちがあってこその賜物です。皆さんも、日本人のルーツだけでなく、自分のルーツ探しもできるところまで遡って調べ、ご先祖供養をして、自分の人生をもう一度、見直して見ることができたなら、更なる霊的成長を成し遂げることができるのではないでしょうか?
参考:
「金石文に見る百済武寧王の世界」蘇鎮轍(ソ・チンチョル)著、彩流社発行
「日本の中の百済文化」任東權(イム・ドングォン)著、竹田旦(たけだ あきら)訳、第一書房発行
「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教篇]」(久保有政+ケン・ジョセフ著、徳間書店発行)

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2012/04/23
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